僕自身が感動する建築について

今日、村野藤吾の南大阪教会を見てきた。
僕にとって村野藤吾の建築はなじみ深い。
関西大学で勉強していた空間そのものが村野藤吾の設計であり、今でもその建築からたくさんの示唆を受けているからだ。

以前、宝塚カトリック教会を見学したときに感じた「初めて人を好きになるような胸のドキドキ」が、この南大阪教会にも存在している。
今日の体験を思い出すだけで思わずため息が出てしまう。中学生の時の恋のようである。
しかも、なんで好きなのか、なんでドキドキするのかと、理論的に、分析的に、言葉にしようとすればするほどはっきりしなくなってくるのである。

10月に見てきた、西沢立衛設計の豊島美術館には独特の理論的明快さがある。
僕自身は見ていないが今年のヴェネチアビエンナーレでは広大な敷地模型の中に小さな豊島美術館の模型を置いていて、周辺環境のコンタラインにすっと水滴が流れていくようなイメージである。実際に、内部空間に入ると同じように水滴を使ったアートが人間がほとんど気にならないような小さなコンタラインに沿って流れたり、動いたりしているという入れ子構造となっている。さまざまな環境の連続性があり、その一つ一つが説明可能な選択をしている。
説明可能性は先日、書いた「かた」と呼ばれる建築の前段階についての検討、創造があるからこそうまれているものである。その説明可能性は見たことのある、体験したことのある(もう共有済みの)「かた」では、そもそも説明なんぞ必要の無いものとなってしまい、新しい「かた」があるからこと説明可能性が求められ、そのことにより人々と価値観を共有するのであろう。つまり「かた」自体を発見する行為が創造過程に位置づけられ、それが見る人に感動を与えているのではないかと思うのである。


しかし、今日の南大阪教会ではそういう「かた」の発見は無い。今まで見たことのある動線であり、単位空間の配置である。強いて言うならば横に付属している幼稚園との動線があるくらいで、その動線も非常に簡潔に結びつけているだけだ。

けれども、感動する。

手が震える。

でもそこにあるのものは何なのかはわからない。
もちろん寸法も非常に厳密であり、スケール感や、小さな意匠がその空間を支えていることは言うまでもない。でもその小さなスケールでの操作が全体にもたらしている情報は熱帯雨林のアマゾンのようにダイナミックで、豊かで全く別のものなのだ。

僕は理論的明快さを持つ建築は好きだし、感動もする。
しかし、それ以上に理論的明快さを持たなくとも、全く違う次元にある建築も存在するのだ。
そういう建築に僕は圧倒され、感動する。

言語と、図面を、片手にそういう未知の領域を開拓するということは見たことの無い蟲を捕まえるようで僕には興味があるのだろう。
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by hama_boy | 2010-12-14 21:00  

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