カテゴリ:未分類( 185 )

 

「関係性について」について

西沢さんの「続・建築について話してみよう」を読んだ。

西沢さんらしい語り口でとても深い内容なのに大変わかりやすく、感銘を受けている。

その中の一つの章に「関係性について」という章がある。

この文章の中の冒頭で

「なぜ開くかと言うと、関係性をつくるためである。関係というものは断ち切るとそれ以上のことは起こらない。しかし関係をつなげると、それをきっかけとして、いろいろな創造的展開というものが起こる」

という文章がある。

このあとにたとえで外と内や場所と場所の関係などを上げてもいっている。

ここで気付いたことは「つなげる」ということは「違いがある」ものが前提だということ。

だから同じものがずっとつづくような均質な状態ではそれが成立しないと思う。

しかしそんな均質な状態は絶対につくることができない。
環境を否定することは建築をつくる上では不可能だからだ。

では均質な状態を描いた人々はどういうことを考えていたのか、と思いを巡らせてみる。
たとえばスーパースタジオが描いたインディアンのための住居。
ずっとグリッドの平面が続き遠くに山脈が見える絵。
これは多分場を均質にする、ということよりも人と人との関係を抽出しているのだと思う。
だからこそ生々しさが生まれていて野性的でリアルに感じている。

他にも豊島美術館も非常に抽象で、ある意味均質だ。
しかし、下との水滴をみると人が感じれないほどの起伏によって、その環境の小さな違いがはっきりと見て取れる。

僕はやみくもに「均質」を表現する、というよりも、ものを整理し抽象化した中での微妙な差異をあぶり出す、ということをやっていきたいと考えている。
[PR]

by hama_boy | 2012-02-09 01:11  

すてきなひとについて

今、とある音響屋の女性の方と一緒に仕事をしている。

とっても有名な方で、名実共に世界トップクラスの方である。

身近に例えるならば、音響界の妹島さん、といった感じ。

その方の言葉を聞いていると非常に元気が湧いてくる。
音について話すとき「柔らかい」、だとか「優しい」、というような形容詞をつかって見えない音に対して、イメージの輪郭を与えてくれるからだ。

そして何より、音の話をしているときに非常に楽しそうである。
少女が夢中になった絵本について話しているように、純粋な気持ちで音に対して向き合っている。

ああいう心から自分の仕事について楽しんでいる人は周りを愉快にする。
それはきっとその人なりの価値観が言葉や振る舞いに現れて僕たちに彼女自身の文化を体験させてくれるからに違いない。

まずは自分が一番楽しんでやれ、といつも背中を押される訳です。

ちゃんちゃん
[PR]

by hama_boy | 2012-02-08 00:48  

セルガスカーノの建築を画像でみて思うこと

セルガスカーノという建築家がスペインにいる。
彼らの建築の良さを一言で表すならば

「瑞々しさ」

に尽きる。
これは僕が今まで建築に抱いたことのない感情であり、とても新鮮である。

始めて彼らの作品を意識したのは

森の中のオフィスという作品。
http://www.dezeen.com/2009/06/11/office-in-the-woods-by-selgascano/#more-32292

dezeenのアーカイブでちらっとだけ出ていた曲面ガラスの断面的な利用している写真を見て、
普段なら見ないこの手の建築の画像をずっと見続けてしまった。

この建築もオフィスが森の中に半地下で埋まるという、ものすごくわかりやすいストーリーがある。
しかし曲面ガラスの断面的な利用や配色センスは今までのミニマルな、あるいは日本の現代建築的な森との向き合い方しか知らない僕にとって強烈なインパクトだった。

よく半地下の案はコンペやいろいろな日本の建築家が行う作業であるが、どれもその質感の根源は似ている。

どちらかというと森との境界を無くしていき空間的に一体的に扱うような価値観である。
でもセルガスカーノのこのオフィスは森、ということを本当にインテリアの一部として扱っている。
あるい森の中の個のオフィスの存在を森のランドスケープの一つのモノとして扱っている。
こういう所に僕は惹かれている。


カルタヘナのホールにもとても感動している。
http://www.iwan.com/photo_Auditorio_El-B_Selgas_Cano_Cartagena_Spain.php

日本人が出来ない瑞々しさがある。
素材の選び方や留め方、構造に至るまですべてがただ軽快、というわけでない。
ただ軽快、というだけならLacaton&Vasselもすごいが、その軽快さとは少し違う。

こういったモノの使い方商業建築を思い起こさせる。
でもなぜか微妙に違っていて「ハズして」いない。
建築のオーセンティックな部分とリンクしている感じがする。

彼らのもたらす余白のつくり方や都市との向き合い方も非常に独特だし、
これは後世にも伝えなきゃならない価値観だと強く僕は思っている。

この目で見に行けたら良いな。

ちゃんちゃん
[PR]

by hama_boy | 2012-02-05 14:13  

3.11後の建築についておもうこと

仕事を始めてもうすぐ一年になる。
その仕事は公共の大きな仕事。

一年の間に公共建築とは何か、という疑問をずっと抱き続けている。

そしてこの一年で3.11の後に出て来たすごく若い同年代の人たちの活動を見ていて、一体公共建築とは何なのかがますますわからなくなっていた。

ただ一つ整理できたことがある。

「公共建築をつくるときの建築家としての心意気」

である。

僕はまちづくり系のある種アートディレクター的動きをする人たちを尊敬している。

コミュニティデザイナーの山崎亮さんも佐藤可士和さんも、ああいうみんなの前ですぐにアイディアを出してまとめていく人々をすごいと思う。

建築家もああいうスタイルで仕事に取り組む人たちが出て来ているのもわかるし、自分もいろんな人を巻き込んで行司をとって、建築をつくるというイベントでまちを、ひとを盛り上げていきたい、と素直に僕も思います。自分の性格的にもそれが向いていると思うんです。

しかし、それだけではだめなんです。

建築家はやはりその建築のすばらしさを未来にも伝えなきゃならない、と思う。

だからやっぱり今僕の目を通して美しいと思える建築、風景を作り出す、見いだすべきなのである。

3.11後の建築と向き合うスタイルは変わった。
とてもささやかでワークショップ的なものを建築と呼ぶ人たちがたくさんいてる。
でも僕にはそこに超越性を感じない。
建築ってのは素朴であろうとも、豪華絢爛であろうとも、
ささやかなものでなくて、たいそう大げさで、時代を超えていく超越性があるもんだ。
人の生きる道をつくってくものなんだ。

だから大きなことをして今の自分たちの想像を超えて未来に残る美しさ、素晴らしさをつくりたい。

そのために行司をとるし、みんなで盛り上がりたい。

ワールドカップの日本みたいなあんな連帯感をまちでつくりたいなって思ってます。
[PR]

by hama_boy | 2012-02-04 00:12  

納得した言葉

無意識のときに思いついたものが良くも悪くも自分が出ている。倉俣史朗
[PR]

by hama_boy | 2011-04-04 02:17  

なぜ妹島和世に影響を受けている人たちは写真の彩度を落とすのか?

先週「美の巨人」というテレビ東京の番組を見てドラクロワの絵を見ていて思ったことである。

ドラクロワが残した絵画で現存している「アルジェの女」は現在では色が落ちて、彩度は低いが描かれた当初は彩度が強く原色が強く出ていたという。

これは補色効果が発見されるもっと前に色の本質を見抜いたドラクロワの鋭さであり、印象派はこの絵から始まったのかもしれない。

ここで前述の疑問である。

自分もよくこれを使う。
完全に白黒にする時だってある。
時間が凍結されたように見える。
いや逆に提案する風景が「自然(natural)」に見える。
もう長い間建っていてしばらく放置されたような感覚がする。

ただこれは僕の印象でしかないのだけれどなぜ妹島和世に影響を受けた人たちは彩度を落とすのであろうか?

その原因として

①ヨーロッパ的文脈を意識している(ヨーロッパの街並は彩度が低いから(実際現地に行ってないので未確認だが))

②ドラクロワの絵のように彩度が抜け落ちた写真に自然さ、歴史とのつながりを感じているから。

③自身が提案する建築を目立たせたいから

ぐらいかな。あんまし項目が思いつかないけれど僕としては②ではないかと思っている。
彩度を落とすのは写真であって建築ではない。だから建築を写真という媒介を使って理プレゼンテーションする際、その写真自体は実際とは違うイミテーションであってもその写真の中にある自然さが浮かび上がるような瞬間を僕たちは感じているのかもしれない。

ところでドラクロワが実際に訪れた地アルジェリアにあさってから行ってくる。そこでどんな色彩が見えるのか非常に楽しみだ。
[PR]

by hama_boy | 2011-01-29 18:08  

映像について

動画は増殖する。

当たり前のことだが、動画はコピーできる。
インターネットが出来てyoutubeができて、いろんな人たちがそこにアップする。
人気がある動画はコピーされ、別の人のネームでまたアップされる。
同じ動画が増殖し続けていく。
関数的に増えていくのもまた面白い。

コピーは今までは個人の範疇、あるいはとある限られた集団の中でのみ、広がっていた。
しかし、インターネットとつながった今、そこにはもはや何の垣根も存在しない。

近代の建築は静止画によって建築のイメージを氾濫させてきた、と言えるかもしれない。
それは紙への複写という手法の驚きと鮮度によるものだったのだと僕は思う。
だとすれば、現代の建築に必要なのは動画による新たな表現方法なのかもしれない。
それも高解像度で、見たことの無い新しい表現が必要なのだと僕は考える。
今こそ、「様相」という考え方がイメージを世界に氾濫させるための根底に必要なのではなかろうか。

そういえばarchitecture photoで去年一番印象的だったのはOMAのコンペの一等案の動画のプレゼンである。

静止画の美しさは抽象され、無時間的な美しさであり、二次元という拘束によるものから生まれていると思う。二次元だけれど時間は存在する動画。最近では3Dテレビが出てきた。あれで渡辺篤史の住宅探訪を見るとどうなるのだろう?と僕はもうそうしている。
[PR]

by hama_boy | 2011-01-15 21:49  

透明に憧れる精神と不透明に安心する心

今年もあけましたね。
開けるのか開けないのかどうなんだろうと思っていましたが、やっぱりあけました。
本年もよろしくお願いします。

さて最近ふと思ったのだが、よくコンペの審査講評などで
「目に見えないものを視覚化することがおもしろい」
というフレーズを目にしていた。

このときに建築を透明なものに、抽象なものにしていこうという志と透明なものを可視化することは正反対ことだなと思った。
たとえば風の流れは目に見えない。けれどもそれは場所の違いを生む。
気温の違いもそう。

でも透明なものの可視化はそれを完全に不透明にして壁のようにしてしまうものではない、と僕は感じる。目には見えるけれども触れない、モノではない現象の実体をつかむような、エフェラルな感覚。そういうモノを目指しているように思う。

こうやって言葉にすると、虚の透明性やガラスに映り込んだ映像的な現象もそういうエフェラルな感じを目指しているようで、全く正反対な場所からとある一つの地点を探そうとしているのかな、とも思えてくる。

もしかしたら抽象の行き着く先はただ透明なのではなく、オーロラのようにたゆたう現象へと向かっているのかもなと思った初妄想。
[PR]

by hama_boy | 2011-01-03 11:29  

外側から発見する型と内側から発見する型

宮脇檀は自分が泊まったすべてのホテルを寝る前に実際に測って記録していたらしい。
そして「ふむふむなかなか使いよい」などとつぶやいていたことが「宮脇檀の住宅設計」という本の中に書かれていた。
この本で宮脇氏が狭い寸法の扱いにきわめて優れた才能を発揮してことが書かれており、こういったホテルの実測が氏の中でのスケール感を養っていったのだろう。
実際にお会いしたことも話を聞いたこともない僕だけれども、宮脇氏の著作から自分の生活における実体験の中から寸法を導き出し、設計していったことは伺える。
その前述の本の中では吉村順三と並ぶ生活派の建築家と誰かが称していた。
個人的経験の中で自分の身の回りの寸法や振る舞いから型を導く思考は内側から発見する型と僕は呼んでいる。

逆に外側から発見する型もある。
現在の社会状況や周辺環境の読み取りの結果見えてくる生活の型のことである。
僕が思うに森山邸やこないだ見学させていただいたVANSという大阪の設計事務所が設計したつなねの集合住宅に感じた。住宅だけでなく豊島美術館にも同じような外側から発見する型を感じた。周辺環境との形態的連続性は前にも書いていたけどここでは形態の話だけではない外もある。アーティストとの普段建築家がかかわっていない領域とのコラボレーションも外側からの型といえよう。

でも森山邸には外側からの型だけでなく内側からの型も同様に感じられることが面白い。
内側からの型はあの大きな開口やまだ体験してないのでわからないが、庭に現れているように思う。

僕が思うに森山邸は二つのシステムが混じっているように感じていた。それが分棟配置と開口であり、それらは矛盾しているようにも見えるのだ。しかし、なぜか自然にそれらがお互いに干渉しあって共存しているように見えるのが不思議でたまらない。

僕にとって内側からの型と外側からの型は自分の心を切り裂いていく。
けれど論理的ではないのだけれどそれらが建築の豊かさにつながるのではないかとも思っている。
[PR]

by hama_boy | 2010-12-17 17:44  

僕自身が感動する建築について

今日、村野藤吾の南大阪教会を見てきた。
僕にとって村野藤吾の建築はなじみ深い。
関西大学で勉強していた空間そのものが村野藤吾の設計であり、今でもその建築からたくさんの示唆を受けているからだ。

以前、宝塚カトリック教会を見学したときに感じた「初めて人を好きになるような胸のドキドキ」が、この南大阪教会にも存在している。
今日の体験を思い出すだけで思わずため息が出てしまう。中学生の時の恋のようである。
しかも、なんで好きなのか、なんでドキドキするのかと、理論的に、分析的に、言葉にしようとすればするほどはっきりしなくなってくるのである。

10月に見てきた、西沢立衛設計の豊島美術館には独特の理論的明快さがある。
僕自身は見ていないが今年のヴェネチアビエンナーレでは広大な敷地模型の中に小さな豊島美術館の模型を置いていて、周辺環境のコンタラインにすっと水滴が流れていくようなイメージである。実際に、内部空間に入ると同じように水滴を使ったアートが人間がほとんど気にならないような小さなコンタラインに沿って流れたり、動いたりしているという入れ子構造となっている。さまざまな環境の連続性があり、その一つ一つが説明可能な選択をしている。
説明可能性は先日、書いた「かた」と呼ばれる建築の前段階についての検討、創造があるからこそうまれているものである。その説明可能性は見たことのある、体験したことのある(もう共有済みの)「かた」では、そもそも説明なんぞ必要の無いものとなってしまい、新しい「かた」があるからこと説明可能性が求められ、そのことにより人々と価値観を共有するのであろう。つまり「かた」自体を発見する行為が創造過程に位置づけられ、それが見る人に感動を与えているのではないかと思うのである。


しかし、今日の南大阪教会ではそういう「かた」の発見は無い。今まで見たことのある動線であり、単位空間の配置である。強いて言うならば横に付属している幼稚園との動線があるくらいで、その動線も非常に簡潔に結びつけているだけだ。

けれども、感動する。

手が震える。

でもそこにあるのものは何なのかはわからない。
もちろん寸法も非常に厳密であり、スケール感や、小さな意匠がその空間を支えていることは言うまでもない。でもその小さなスケールでの操作が全体にもたらしている情報は熱帯雨林のアマゾンのようにダイナミックで、豊かで全く別のものなのだ。

僕は理論的明快さを持つ建築は好きだし、感動もする。
しかし、それ以上に理論的明快さを持たなくとも、全く違う次元にある建築も存在するのだ。
そういう建築に僕は圧倒され、感動する。

言語と、図面を、片手にそういう未知の領域を開拓するということは見たことの無い蟲を捕まえるようで僕には興味があるのだろう。
[PR]

by hama_boy | 2010-12-14 21:00